

全共闘講師たちがやってくる前の予備校は、公教育の雛形であったと言っても差し支えないであろう。すなわち、教材の骨格はあくまで文部省(現文部科学省)が決めた学習指導要領に準拠したもの、プラス過去の大学入試問題であった。そして講師の大半は高等学校を定年退職した高齢の人で占められ、残りは大学の非常勤講師や、院生の片手間のアルバイトであった。したがって授業は平均的に退廃的で活気のあるものではなかった。生徒のほうも予備校の講師や授業に対して過大な期待はしていなかった。ひとつには、当時の中等教育にはまだ活力があったからだ。京大理学部や東大文学部などの出身の、生徒の心を惹きつける先生が、当時の高等学校にはまだいたのである。それだけに生徒たちはいまほど予備校の授業に依存していなかった。思えば当時の浪人と昨今の浪人とでは、言葉の持つニュアンスや社会的位置づけからして、まるで違っていたのだ。昔の浪人は量的にもマイナーで、昨今のように「一浪はヒトナミ」などというさばさばした割切りや明るさなどなく、大学受験に失敗した日陰の存在であったのだ。
[参考サイト]
大学受験予備校の四谷学院
http://www.yotsuyagakuin.com/
学校以外の学習の場というのは千差万別です。塾と一ロでいっても、集団授業を行なうのか、少人数制クラス(個別指導)で授業をするのか、またはマンツーマンで教えるのかという授業形態だけが異なるのではありません。塾や予備校にはそれぞれ独自の方針や目的、理念かおり、講師の採用基準、教材、マナーや礼儀に関するしつけ、講師と生徒の距離感など、その違いは多岐に渡ります。「○○塾」という同じ看板を掲げていても、フランチャイズ制であれば経営者の考えで教室それぞれに個性があります。大手有名塾はほとんどが支部制の形式をとり、本部の研修で均一化をはかっていますが、やはりその教室のトップの個性はどうしても反映してしまいます。同じ看板をかかけていても、教室ごとに異なるのは当然なことでもあるでしょうし、プラス面もマイナス面もあります。
[参考サイト]
四谷学院の個別指導教室
http://yotsuyagakuin-kobetsu.com/
第二次大戦が終了して、現行の高等教育体制が一九五〇年(昭和二十五年)に発足した後、日本の大学・短大進学率は、次のような経過をたどった。大学進学率は一九六〇年から一九七五年までの第一次アップ期と、一九九一年から一九九九年までの第二次アップ期の、二度のアップ期を経て今日の約五〇パーセントに達するのであるが、前記のベーシッククラスの話は、まさにこの第一次進学率アップ期の出来事であった。この第一次進学率アップ期の背景にはいったい何かあったのであろうか。よく言われることは、ひとつは高度経済成長であり、いまひとつは女子の高等教育進学志向の高まりである。しかし、それは表象化された現象を原因として掴み当てたに過ぎない。実はその時、予備校がみたものは生徒個々人の生きざまに関わるほどのシリアスな現実であったのだ。この時期に水面下で起きていたことは、今日の日本の教育問題の根っ子に大きく横たわる、もっと言えば日本という国の健全さにすら関わりを持つ重大な出来事であるのである。